最近は頭痛がない・・と書いたけど、実は日曜日は久々の頭痛でした。
土曜〜日曜にかけての夜中、変な物音に深い眠りを邪魔され、騒音の原因を突き止めるために家の中をウロウロしてたら、すっかり目が冴え、ようやく眠りに落ちたのは6時近かったでしょうか。
かなりリアルな夢を延々と見て、9時近くにやっと起床したものの、後頭部が・・・
寝不足のせいと思ってましたが、さっき久々にチェックしたアクセスログにあった過去記事を読んでみたら、「もしかして小脳のアップグレード?」と思っちゃいました。知らんけどw
ま、それはさておきまして・・
4月・5月は、自治会の組長当番だったんですが、ちょうど1ヶ月くらい前の日曜日、太極拳の早朝稽古から戻ったところ、「大至急」の付箋がついた回覧板が届いていました。
ご近所さんの訃報だったんですが、中身を読んでびっくり。
なんと、高校の同級生ではないですか。しかも同じ部活(演劇部)、子供同士も同級生。
3年前に旅立ったママ友Aの次女さんとも、同級生でした。
そして、程なくして分かったのですが、死因もAと同じ膵臓癌でした。
その同級生のことを、Mちゃんと呼ぶことにします。
演劇部仲間には医療関係者が何人かいて、Mちゃんは、その内の一人に、在宅医療について相談していたようです。
Aと同じで、治療のしようがないから病院にはいられず、多分ホスピスは順番待ちとなり、在宅医療という形になったのだろうと思います。
でも、相談を受けた看護師の友人によれば、Mちゃんは自分の運命と静かに向き合い、体調が許せばご家族とも旅行などに出かけ、できるだけ良い時間を過ごすよう務めたという話でした。
たまたま私がご近所で組長をやっていたため、いち早く訃報を知ることができ、同窓生と共同で供花できたのが、せめてもの(あくまでこちら側の)救いでした。
お通夜で見たMちゃんの祭壇の写真・・やつれてはいたけれど、相変わらずフォトジェニックな笑顔。多分、ご家族で旅行された時に撮ったのかな。
AとMちゃんは、同じ病気で似たような経過を辿ったけれど、最後の日々やお葬式の景色はある意味対照的だった。
どっちがどうというのではなく・・AはAらしく、MちゃんはMちゃんらしく逝った、ということなのだろう。
Aが何度目かの検査入院を終えて一時帰宅した際、とある(一部界隈では全国的に有名な)禅僧の家にアポなしで飛び込んだことがある。
詳細は省くが、その禅僧とは、その数ヶ月前に知り合ったばかりだった。
公の場所で説法を拝聴した際、携帯番号をいただいたので、勇気を奮って連絡し、ご自宅に伺って個人的にお話をさせていただいた。
今まで知らなかった地元の歴史、お寺の本来の役割等々、面白い話をたくさん伺った。
僧侶とは、悩みや苦しみを抱える人々の相談相手となり、導くことによって、ファンを作るものだ
檀家という制度で縛るのではなく、「自分の葬式には、このお坊さんにお教をあげてもらいたい」と思ってもらえるようなファンを増やして、対価をいただくのが、お寺経営の本来のあり方である・・
私の言葉だと語弊があるかも知れないが、そんな趣旨の話も伺ったように記憶している。
私は、その老師とAを会わせたいと思っていた。
心の迷いが少しでも晴れれば・・それに、お葬式やお墓のことも、遺族任せじゃなくて、自分で決めて、準備したくないか?
まだ奇跡が起きて回復するという一縷の望みを握りしめているAに対して、そんなことを考える私は残酷、非常識なのだろうか。
んな訳ないでしょ。もう、ここまで来ちゃってるんだから・・
もちろん、当事者でない私がそう言うのは簡単だよ。私だって、たかが初期の乳がんで、あんなに取り乱したじゃないか。
いや、だけど、いや、だからこそ、こういう時こそ、腹を括らなきゃ、しょーがないだろうが・・
そして、*ありえない偶然*(不遜を承知で言えば、私にしてみれば当然・必然)によって、私とAはアポなしで老師の家に招き入れられた。
Aは自分の現状を老師に説明した。
「最後まで諦めないで生き抜こう」という思いと、「体は所詮”借り物”なのだから、執着を捨てよう」という考えの狭間で揺れていると。
老師はAの話を遮りはしなかったが、ズバッと言い放った。
「残酷なようだが、はっきり言わせていただく。私も2年前に膵臓癌の妻を自宅で看取った。だからわかる。治ることはない。残り時間が迫っている今だからこそ、見えるものがある。今が、悟りの絶好のチャンスなのです。」
そう言われて、「はい、確かに!」と一瞬で気持ちが切り替わる人は滅多にいないのかも知れないが、老師の言葉は、その場のAにとっては、想像以上に厳しく辛いものだったのかも知れない。
老師と私が二人がかりで、「どうせお前は死ぬのだ。観念しろ!」と、Aに詰め寄っているのだから・・
Aは、帰りの車の中で、「五里霧中だよ…」と、これ以上ない暗い声で、その時の心情を私に吐露した。
でも、その1時間後に*偶々*開催されることになっていた老師のお話会に参加したいと自ら願い出て、それが終わる頃には、生き生きとした笑顔になっていた。
私自身は、その「お話会」には参加しなかった。
仕事が忙しかったのもあるし、数ヶ月前に参加した時は、全国から集まった悩み多き人々が、延々と愚痴をこぼしては、同じ結論(頭で考えた正解)に行き着くという堂々巡りをやってるのを見て、もう良いと思ってしまったのだ。
だから、Aをその会場に送迎するだけにとどめた。
Aを会場に送り届けた時、駐車場で、僧衣に着替えた老師と鉢合わせした。
つい1時間前、ご自宅で作務衣姿で私たちに接見してくださった老師だ。
私は、Aの腰に軽く手を当てつつ、老師の目を見て「お願いします」と言い、頭を下げた。
老師も、私の目の奥の奥に向かって、深くうなづいてくださった。
Aには、参加者が延々ぐちをこぼす場に座り続けるのはしんどいだろうから、帰りたくなったらいつでもメールをくれと伝えてあった。
しかし、終了時間が近づいても、一向にAから連絡が来ない。
終了時間10分を過ぎて、ようやくメールが入った。
あの体調で、よく最後まで居残れたな、と思ったが、迎えに行ってみると、他の参加者さんたちと別れを惜しむように元気に挨拶を交わしていた。
後で聞いてみると、その日はすっかり「Aのためのお話会」になったそうだ。
そりゃそうか。余命数ヶ月であんなに痩せこけたAが、最後の力を振り絞ってあの場に臨んでいるのだから、他の人の悩みや迷いなんて、屁のようなもの。
Aのおかげで、みんなの悩みも吹っ飛び、Aはそのみんなから、優しさとエネルギーをいっぱいいただいた。
ウィンウィンでよかったね。
非常に濃い1日だったが、Aはその夜も、更に娘さんと外出をすることになっていた。
それは、激しい痛みを抱えるAにとって、地獄の苦しみの数時間となった筈だが、Aは立派にそれをやり遂げた。
Aが私服で外出できたのは、それが最後だった。
(続きは、またいつか・・)